カラオケこのタグの資料 26 本
- ブルー・ライト・ヨコハマ(いしだあゆみ・1968年) 川崎の工場の灯が、横浜の歌になった新着No.88
1968年12月25日に日本コロムビアから出た、いしだあゆみの26作目のシングル。作詞の橋本淳は、横浜の海から見た川崎方面の工場の灯にカンヌの夜景を重ねたとされ、題も初めは「ブルー・ライト・カワサキ」だった。オリコン週間1位を9週続け、作曲の筒美京平にとっても初の1位・初のミリオンセラーになった。2025年のDAM「演歌・歌謡」年間ランキングでも13位に入っている。
- 2000年以降の歌 配信で聞き、カラオケの定番は固まり、昭和の歌は海を渡った新着No.7
2000年以降、歌はCDで買うものから、配信やサブスク、YouTubeで聞くものに変わった。日本レコード協会の推計では2025年の売上の43%が配信である。カラオケでは20年以上前の曲が上位に残り続け、演歌の1位は1977年の「津軽海峡・冬景色」から動かない。海外ではネットを通じて昭和のシティポップが見つかり、2025年の紅白歌合戦では松田聖子が最後に歌った。
- 1990年代の歌 ドラマ主題歌と小室サウンドがミリオンを量産し、通信カラオケが歌を広げた新着No.6
1990年代は、CDシングルが100万枚売れることが珍しくなかった時代である。ドラマ主題歌が200万枚を超え、テレビにあまり出ないビーイング系、プロデューサー小室哲哉の「小室ファミリー」がヒットを続けた。日本のレコード・CDの生産金額は1998年に頂点に達する。同じころ通信カラオケとカラオケボックスが広がり、カラオケ参加人口は1995年度に最多になった。
- 1980年代の歌 聖子と明菜、ザ・ベストテン、そしてCDとカラオケボックス新着No.5
1980年代は、松田聖子と中森明菜を頂点とするアイドル歌謡の時代で、TBS『ザ・ベストテン』が毎週の順位をテレビで見せた。山下達郎や大滝詠一らの都会的な音楽(のちにシティポップと呼ばれる)が売れ、演歌は「北酒場」のような明るい曲やテレサ・テンの歌で幅を広げた。1982年にCDが登場し、レーザーディスクのカラオケとカラオケボックスで、歌う場所が酒場の外へ広がった。
- 1970年代の歌 フォークが大衆の歌になり、阿久悠と筒美京平が歌謡曲を磨いた新着No.4
1970年代は、若者の弾き語りだったフォークがヒットチャートに入り、やがてニューミュージックへ変わっていった時代である。同時に、作詞家・阿久悠と作曲家・筒美京平が職業作家として歌謡曲の黄金期を支え、オーディション番組『スター誕生!』から山口百恵やピンク・レディーが出た。演歌も「北の宿から」「津軽海峡・冬景色」の大ヒットを生み、スナックではカラオケが広がり始めた。
- 1960年代の歌 テレビの時代に、御三家・若大将・グループサウンズが並んだ新着No.3
1960年代は、テレビが歌を広める主な場になった時代である。橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦の「御三家」、世界のヒットチャートで1位になった坂本九「上を向いて歩こう」、自分で曲を書く加山雄三、ビートルズ来日後のグループサウンズが並んだ。夜の街ではムード歌謡が歌われ、日本調の歌に「演歌」という呼び名が付き始めた。
- 戦後の歌謡曲(1945〜1959) 焼け跡の明るい歌から、ひばりと望郷の歌へ新着No.2
敗戦の年の秋、映画『そよかぜ』の「リンゴの唄」が戦後最初のヒットになった。笠置シヅ子のブギ、少女歌手・美空ひばりの登場、「三人娘」と、明るくはずむ歌が続く一方、シベリア帰りの兵の「異国の丘」や、三橋美智也・春日八郎の故郷を思う歌も多くの人に歌われた。紅白歌合戦(1951年)と日本レコード大賞(1959年)もこの時代に始まる。
- 吉田拓郎 フォークを若者の流行歌にし、「襟裳岬」で演歌にも橋をかけた新着No.96
吉田拓郎は1972年の「結婚しようよ」「旅の宿」で、反体制の音楽と見られていたフォークを若者の流行歌に変えた。作曲家としては森進一「襟裳岬」で1974年の日本レコード大賞を取り、フォークの作り手が歌謡曲や演歌に曲を書く流れのきっかけを作った。ラジオの深夜放送でも若者の支持を集め、2022年に音楽活動の区切りを表明した。
- 中島みゆき 4つの年代でシングル1位、「糸」と「地上の星」が今も歌われる新着No.95
中島みゆきは1975年にデビューし、同じ年に「時代」でポプコンと世界歌謡祭のグランプリを取った。「わかれうた」「悪女」「空と君のあいだに」「地上の星」で、オリコンの4つの年代にわたってシングル1位を得た唯一のソロ歌手である。2025年もカラオケDAMで「糸」が楽曲別31位、JOYSOUNDの60代で「糸」7位・「地上の星」13位に入っている。
- 阿久悠 5000曲を書き、テレビでスターを作った歌謡曲黄金期の作詞家新着No.92
阿久悠は広告会社と放送作家を経て作詞家になり、生涯に5000曲以上を書いた。日本レコード大賞の大賞を作詞家として最多の5曲で受け、『スター誕生!』の企画と審査員としてピンク・レディーや山口百恵らが世に出る場を作った。演歌からアイドルまで一人で書き分けたことが、1970年代の歌謡曲の幅をそのまま表している。
- 美空ひばり 子どもの歌手から「女王」へ、40年歌い続けた戦後の歌の中心新着No.91
美空ひばりは1949年に12歳で本格デビューし、「悲しき口笛」「リンゴ追分」「柔」「悲しい酒」と時代ごとに大ヒットを出した。1989年に52歳で亡くなり、女性で初めての国民栄誉賞を受けた。日本コロムビアの発表では総売上は約1億1700万枚にのぼり、2025年もカラオケDAMの歌手別で15位に入っている。
- 歌番組とヒットチャート ベストテンの順位からストリーミングとカラオケを足すチャートへ新着No.63
1968年にオリコンのシングルチャートと「夜のヒットスタジオ」が始まり、1971年に「スター誕生!」、1978年に「ザ・ベストテン」が始まった。歌番組は1989〜90年に相次いで終わり、ヒットの物差しは CD 売上へ、さらに配信へ移った。2008年に始まったビルボードジャパンの Hot 100 は、2018年からカラオケで歌われた回数もヒットの数に入れている。
- NHK紅白歌合戦 ラジオの正月番組が大晦日の国民行事になり、視聴率は80%台から30%台へ新着No.62
紅白歌合戦は1951年1月3日、NHKラジオの正月番組として14組の歌手で始まった。1953年の第4回からテレビ放送と大晦日の放送になり、1963年には視聴率81.4%を記録した。1989年から二部制になり、第2部の視聴率は2023年に31.9%まで下がったが、2025年の第76回は35.2%だった。通算成績は2025年までで紅組34勝・白組42勝。
- カラオケ産業の数字 参加人口は1995年度の5,850万人が山、コロナで半分近くに落ち、2025年度に4,120万人まで戻った新着No.54
全国カラオケ事業者協会の「カラオケ白書」によると、カラオケ参加人口は2019年度に約4,650万人だったが、コロナの広がった2020年度に約2,620万人へ4割減った。その後は戻り、2025年度は約4,120万人(2019年度の89%)。市場規模も2025年度は5,108億円で、2019年度の約5,765億円には届いていない。参加人口の山は1995年度の5,850万人とされる。
- カラオケでよく歌われる曲 年間ランキングに十年以上居座る定番と、50代・60代の歌新着No.53
2025年の年間ランキングでは、JOYSOUND・DAMとも1位がMrs. GREEN APPLE「ライラック」、2位がVaundy「怪獣の花唄」だった。一方で「残酷な天使のテーゼ」「小さな恋のうた」「ハナミズキ」「ひまわりの約束」は2015年・2020年・2025年のどの年も上位30位に入っている。演歌・歌謡曲の部門では石川さゆりとテレサ・テンの曲が毎年上位を占める。
- 通信カラオケとカラオケボックス コンテナの個室と電話回線の曲配信が、歌う人を若者と女性に広げた新着No.52
1985年ごろ、船や鉄道の貨物コンテナを改造したカラオケボックスが生まれ、カラオケは酒場の中年男性の遊びから、若者や家族の遊びに変わった。1992年には電話回線で曲を送る通信カラオケが登場し、JOYSOUND(1992年)とDAM(1994年)が業界を二分していく。採点機能は2000年代から細かくなり、点数を競う楽しみ方が広がった。
- カラオケの誕生 スナックの8トラックから始まり、発明者は一人に決まらない新着No.51
カラオケは1960年代の終わりから70年代の初めに、8トラックテープの再生機にマイクを付けた機械としてスナックや酒場に置かれたのが始まりとされる。発明者には根岸重一(1967年)、浜崎厳(1968年)、井上大佑(1971年)らの名が挙がり、一人には決まらない。誰も特許を取らなかったことが、かえって業界を一気に広げたと考えられる。1980年代にはレーザーディスクで映像と歌詞が画面に出るようになった。
- シティポップ 1980年代の都会の音楽が、40年後にインターネットで世界に見つかった新着No.37
シティポップは、1970年代後半から1980年代に流行した、洋楽の響きを持つ都会的なポップスである。山下達郎、竹内まりや、大滝詠一、杏里らが代表で、1980年代前半が全盛期だった。2010年代後半、YouTubeやSpotifyを通じて海外で聴かれ始め、竹内まりや「プラスティック・ラヴ」や松原みき「真夜中のドア」が世界で知られるようになった。
- アイドル歌謡 1971年の「新三人娘」から、テレビのオーディションと大人数グループへ新着No.36
日本のアイドル歌謡は、南沙織・天地真理・小柳ルミ子がデビューした1971年を「アイドル元年」とすることが多い。同じ年に始まった『スター誕生!』から山口百恵らが出て、キャンディーズとピンク・レディーが1970年代後半を席巻した。1980年代は松田聖子と「花の82年組」の黄金時代で、1985年のおニャン子クラブが大人数グループの始まりになった。
- ニューミュージック フォークでも歌謡曲でもない、自分で作って歌う人たちの名前新着No.34
ニューミュージックは、1970〜80年代に自分で作って歌う人たちの音楽を指した言葉である。フォークにロックなどを加え、生活の重さや思想を薄めた歌とされる。名づけ親ははっきりせず、範囲も文献によって違う。1978年には紅白に「ニューミュージック・コーナー」ができ、1990年代にJ-POPという言葉に置き換わった。
- フォーク 大学生の歌から反戦の歌へ、そして四畳半の暮らしの歌へ新着No.33
日本のフォークは、1960年代半ばの大学生のカレッジフォークから始まり、1967年ごろから反戦や社会への怒りを歌う関西フォークが広がった。1969〜1971年の中津川のフォークジャンボリーを境に、吉田拓郎やかぐや姫が個人の暮らしや気持ちを歌うようになり、「四畳半フォーク」と呼ばれた。フォークはやがてニューミュージックへつながる。
- 演歌 演説の歌が流しの「艶歌」を経て、1970年ごろ「日本の心」の歌として名前を得た新着No.32
「演歌」はもともと明治の自由民権運動で、演説の代わりに歌われた歌を指した。今の意味の演歌は、1960年代の「艶歌」を経て、1970年ごろに民謡調や浪曲調の歌謡曲をまとめて呼ぶ名前として定着した。輪島裕介『創られた「日本の心」神話』は、演歌が昔からの日本の心だという見方そのものが1960年代以降に作られたと論じた。
- 歌謡曲とは何か 放送局が「はやり歌」を言い換えた言葉が、昭和の歌全体の名前になった新着No.31
「歌謡曲」は、1933年にJOAK(今のNHK)が「流行歌」「はやり歌」の代わりに放送で使ったことで広まった言葉である。レコード会社の専属作家と歌手の分業で作る歌を指し、1960〜70年代にテレビとともに黄金時代を迎えた。1990年代にJ-POPという呼び名が広まると、歌謡曲は「昭和の歌」を指す言葉に変わっていった。
- 銀座の恋の物語(石原裕次郎・牧村旬子・1961年) 映画スターと17歳の歌手の、デュエットの元祖新着No.86
1961年にテイチクから出た石原裕次郎と牧村旬子のデュエット曲。映画『街から街へつむじ風』の挿入歌として広まり、翌1962年には同じ題名の日活映画も作られた。公称300万枚とされ、通称「銀恋」。カラオケが生まれる前のムード歌謡のデュエットだが、今もカラオケでデュエットの定番として歌われている。
- 天城越え(石川さゆり・1986年) 「この人にしか歌えない」を狙って作られ、カラオケでいちばん歌われる演歌になった新着No.82
1986年7月21日発売。作詞の吉岡治、作曲の弦哲也、編曲の桜庭伸幸が伊豆・天城湯ケ島の宿に泊まり込んで作った。カラオケブームのなかで、あえて石川さゆりにしか歌えない難しい曲を、という狙いだった。発売時のオリコン最高位は46位にとどまったが、紅白で繰り返し歌われ、DAMでは1994〜2018年に最も歌われた演歌とされる。
- 川の流れのように(美空ひばり・1989年) 最後のシングルは、本人が選び直した一曲だった新着No.81
美空ひばりの生前最後のシングル。もとはアルバムの表題曲で、スタッフは別の曲をシングルにするつもりだったが、ひばり本人の強い希望で入れ替わった。作詞の秋元康はニューヨークで見た川から想を得たと語っている。発売5か月後のひばりの死をへて売上が伸び、1997年のNHKの投票では「20世紀の日本人を感動させた歌」の1位に選ばれた。
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