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No.212新着 ムード歌謡 夜の店で育った大人の歌が、なぜ今もスナックで歌われるのか

ムード歌謡は、ナイトクラブやキャバレーなど夜の店で育った、大人の情緒を歌う歌謡曲の一系統である。厳密な定義はなく、起源にも複数の説がある。1960年代には男性コーラスグループが次々にヒットを出し、有線放送とホステスの後押しが追い風になったとされる。

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登録日時
2026年10月27日 17:45
出典を確かめた日
2026年10月27日
分野
ジャンル
立場
くらさんの考察
タグ
歌謡曲新着デュエット新着カラオケ新着ヒットチャート新着数字・統計新着
歌手・曲
和田弘とマヒナスターズ、黒沢明とロス・プリモス、鶴岡雅義と東京ロマンチカ、内山田洋とクール・ファイブ、東京ナイト・クラブ、小樽のひとよ
資料の種類
事典・概説
年代
1950年代後半〜1970年代

本文と出典

あらまし

ムード歌謡は、ハワイアン、ジャズ、ラテンなどを土台に、ナイトクラブやキャバレーといった夜の街で生まれ育った歌とされる。ウィキペディアによると、厳密な定義はなく、聴いた人が「ムード歌謡だ」と感じれば、その曲はムード歌謡になる。
代表格は、リーダーの名を冠した男性コーラスグループである。和田弘とマヒナスターズ、黒沢明とロス・プリモス、鶴岡雅義と東京ロマンチカ、内山田洋とクール・ファイブなどが挙げられる。

主なできごと

・1954年 和田弘がリーダーとなり、「和田弘とマヒナスターズ」と改名する(前年に結成したハワイアンバンドが前身)
・1958年8月 マヒナスターズ「泣かないで」を発表。オリジナル第一弾で大ヒットしたとされる
・1959年7月 フランク永井・松尾和子「東京ナイト・クラブ」発売(作詞は佐伯孝夫、作曲は吉田正)
・1959年12月 マヒナスターズと松尾和子「誰よりも君を愛す」。第2回日本レコード大賞を受賞
・1966年4月1日 黒沢明とロス・プリモス「ラブユー東京」発売
・1967年9月 内山田洋とクール・ファイブが長崎のキャバレー「銀馬車」の専属バンドとして結成される
・1967年9月25日 鶴岡雅義と東京ロマンチカ「小樽のひとよ」発売
・1968年1月4日付 「ラブユー東京」がオリコン週間シングルチャートで1位(正式集計開始後の最初の1位とされる)
・1969年2月1日 クール・ファイブ「長崎は今日も雨だった」発売(オリコン最高2位)
・1972年11月15日 クール・ファイブ「そして、神戸」発売(オリコン最高6位)

起源をめぐる説

ウィキペディアは、ムード歌謡の起源を三つの見方で紹介している。一つ目は、戦後に連合軍相手に演奏していたバンドが、解放後に銀座や赤坂のナイトクラブでムーディなダンス音楽を演奏し始めたという説である。二つ目は、1950年代に進駐軍相手の演奏で広まったハワイアンやジャズに、歌謡曲の味付けを加えて生まれたという説である。三つ目は系譜でたどる説で、ディック・ミネをルーツに、バッキー白片がハワイアン・コーラスを歌謡曲になじませ、和田弘とマヒナスターズが形にし、さらに吉田正とその門下(フランク永井、松尾和子ら)が都会派のムード歌謡を確立したとする。
同じ記事は、ジャンル名の語源を説明していない。「ムード」が雰囲気や情緒を指す語だという以上のことは、今回確かめられなかった。

ナイトクラブとキャバレーの時代

J-CASTニュースの記事(2020年)によると、東京五輪(1964年)の前から大型キャバレーが都市部で急増し、大人の歌を聴かせる歌手やコーラスグループが活躍した。1960年代には多くのグループが競い合い、記事はこれを「百花繚乱」と表現している。
「ラブユー東京」は、ロス・プリモスのデビュー曲で、当初はB面だった。有線放送でじわじわと人気を集め、ボーカルの森聖二の声が、甲府市のホステスたちから火がついたと同記事は書く。1967年には有線放送のリクエストランキングで1位になったとされる(ウィキペディア)。オリコンの売上は32.7万枚と記載され、累計では250万枚に達するとも書かれている。数え方が違う二つの数字なので、並べて読む必要がある。
有線放送とホステスの関係について、J-CASTは、ホステスが開店前に店の公衆電話から10円玉でリクエストしたと「推測」している。各グループのマネジャーも、毎日何十回も電話をかけたという。ただしこれは記事筆者の推測と伝聞であり、確定した事実としては扱えない。

代表曲の数字

「小樽のひとよ」(1967年)は、ボーカルが三条正人、作詞が池田充男、作曲が鶴岡雅義である。ウィキペディアは、累計売上が150万枚を超え、オリコン週間2位、1968年度の年間4位としている。第18回・第19回の紅白歌合戦の歌唱曲にも分類されている。
「そして、神戸」(1972年)は、作詞が千家和也、作曲が浜圭介である。オリコン最高6位でゴールドディスクに認定され、第6回日本有線大賞と、第15回日本レコード大賞の作曲賞を受けた。
「東京ナイト・クラブ」は、男女が一行ずつ交互に歌う「かけ合い方式」の先駆けともいえるデュエット曲とされ、デュエットの定番として知られる(ウィキペディア)。

カラオケで歌うなら

「東京ナイト・クラブ」はデュエット曲である。それ以外の曲はソロかグループでの歌唱が基本だ。原曲のキー、DAMやJOYSOUNDの公式ランキングでの順位は、今回の調べでは確認できなかった。
確かめられたのは、ウィキペディアの次の記述だけである。カラオケ機器が普及するにつれ、夜の街でステージの演奏を「聴く」文化から、小規模なスナックで客自身が「歌う」文化への移行が始まった。ムード歌謡がカラオケで定番になった理由を直接に述べた資料は、見つけられなかった。

評価の分かれる点

起源は一つに決まっていない。銀座・赤坂のナイトクラブ説、進駐軍相手のハワイアンとジャズの流れ、ディック・ミネからの系譜では、起点の場所も人物も違う。どれが正しいというより、複数の流れが重なった結果と見るのが無難である。
どの曲をムード歌謡に入れるかも定まらない。ウィキペディアは淡谷のり子「別れのブルース」(1937年)から2020年代の曲まで広く挙げ、クール・ファイブの基本情報でもジャンルは「歌謡曲」と「ムード歌謡」の併記である。

くらさんの考察

以下は資料に書かれていない、くらさんの推測である。
ムード歌謡が夜の店で歌い継がれる理由は、歌が生まれた場所と、歌われる場所が同じ種類の空間だからだと考えられる。ナイトクラブやキャバレーで聴かれた歌が、のちにスナックで客が歌う歌になった。場の雰囲気を作る役目は、今も変わっていないのではないか。
デュエットの定番になる点も、曲の作りから説明できる。「東京ナイト・クラブ」のかけ合い方式は、初対面でも役割が決まっているので、歌う二人が打ち合わせなしに成り立つ。歌い手に特別な技量を求めない作りだと考えられる。
ご当地の地名が曲名に入ることも、一因かもしれない。「小樽」「長崎」「神戸」「東京」は、その土地を知る客が自分の話として歌いやすい。ただし、これを裏付ける資料は確かめていない。

ジージへの問いかけ

・若いころ、キャバレーやナイトクラブ、スナックで、コーラスグループの生演奏を聴いたことはありますか。どの店でしたか。
・「小樽のひとよ」や「そして、神戸」を、最初に聴いたのはラジオ、有線、店のどこでしたか。
・スナックで歌うデュエット曲は、誰と、どの曲を歌うことが多いと思いますか。

出典

・ウィキペディア「ムード歌謡」 https://ja.wikipedia.org/wiki/ムード歌謡
・J-CASTニュース「ムード歌謡の時代 堀井六郎さんは有線放送を動かした10円玉を思う」(2020年) https://www.j-cast.com/trend/2020/03/18382408.html
・ウィキペディア「東京ナイト・クラブ」 https://ja.wikipedia.org/wiki/東京ナイト・クラブ
・ウィキペディア「ラブユー東京」 https://ja.wikipedia.org/wiki/ラブユー東京
・ウィキペディア「小樽のひとよ」 https://ja.wikipedia.org/wiki/小樽のひとよ
・ウィキペディア「そして、神戸」 https://ja.wikipedia.org/wiki/そして神戸
・ウィキペディア「内山田洋とクール・ファイブ」 https://ja.wikipedia.org/wiki/内山田洋とクール・ファイブ
・ウィキペディア「和田弘とマヒナスターズ」 https://ja.wikipedia.org/wiki/和田弘とマヒナスターズ

この記事を読んで浮かんだ疑問は、運営者ジージが音楽QAでくらさんに質問し、答えをそこに載せていきます。