名曲を読む歌い継がれる歌には、わけがある
1曲ずつ、生まれたいきさつ、当時の受け止め、今もカラオケで歌われる理由を調べました。歌詞は載せていません。
No.81川の流れのように美空ひばり1988〜1989年(アルバム1988年・シングル1989年発売)最後のシングルは、本人が選び直した一曲だったNo.82天城越え石川さゆり1986年発売「この人にしか歌えない」を狙って作られ、カラオケでいちばん歌われる演歌になったNo.83神田川南こうせつとかぐや姫1973年発売電話で読み上げた詞に、3分でメロディが付いたNo.84なごり雪伊勢正三1974〜1975年かぐや姫のアルバム曲が、カバーで国民の春の歌になったNo.85また逢う日まで尾崎紀世彦1969〜1971年(1971年発売)二度ボツになったメロディが、レコード大賞を取ったNo.86銀座の恋の物語石原裕次郎1961〜1962年映画スターと17歳の歌手の、デュエットの元祖No.87時の流れに身をまかせテレサ・テン1986年発売日本の歌謡曲が、中国語でアジアに歌い継がれた
歌手と作り手
- 美空ひばり子どもの歌手から「女王」へ、40年歌い続けた戦後の歌の中心美空ひばりは1949年に12歳で本格デビューし、「悲しき口笛」「リンゴ追分」「柔」「悲しい酒」と時代ごとに大ヒットを出した。1989年に52歳で亡くなり、女性で初めての国民栄誉賞を受けた。日本コロムビアの発表では総売上は約1億1700万枚にのぼり、2025年もカラオケDAMの歌手別で15位に入っている。
- 阿久悠5000曲を書き、テレビでスターを作った歌謡曲黄金期の作詞家阿久悠は広告会社と放送作家を経て作詞家になり、生涯に5000曲以上を書いた。日本レコード大賞の大賞を作詞家として最多の5曲で受け、『スター誕生!』の企画と審査員としてピンク・レディーや山口百恵らが世に出る場を作った。演歌からアイドルまで一人で書き分けたことが、1970年代の歌謡曲の幅をそのまま表している。
- 筒美京平洋楽の新しさを茶の間の歌に直した、売上歴代1位の作曲家筒美京平はレコード会社の洋楽担当から作曲家になり、オリコン集計で作曲作品の売上7560.2万枚と、作曲家の歴代1位を持つ。「ブルー・ライト・ヨコハマ」から少年隊、TOKIOまで、半世紀近くヒットを出し続けた。テレビにほとんど出ない裏方で、2020年10月7日に80歳で亡くなった。
- 松本隆はっぴいえんどの日本語ロックから、聖子と「木綿のハンカチーフ」の言葉へ松本隆ははっぴいえんどのドラマーとして日本語でロックを歌う道を開き、のちに歌謡曲の作詞家に転じた。太田裕美「木綿のハンカチーフ」、寺尾聰「ルビーの指環」、松田聖子の一連の1位曲などを書き、シングル売上は作詞家で歴代3位とされる。古い言葉をあえて使う、手紙のやりとりで物語を進めるといった工夫が、詞の特徴として知られる。
- 中島みゆき4つの年代でシングル1位、「糸」と「地上の星」が今も歌われる中島みゆきは1975年にデビューし、同じ年に「時代」でポプコンと世界歌謡祭のグランプリを取った。「わかれうた」「悪女」「空と君のあいだに」「地上の星」で、オリコンの4つの年代にわたってシングル1位を得た唯一のソロ歌手である。2025年もカラオケDAMで「糸」が楽曲別31位、JOYSOUNDの60代で「糸」7位・「地上の星」13位に入っている。
- 吉田拓郎フォークを若者の流行歌にし、「襟裳岬」で演歌にも橋をかけた吉田拓郎は1972年の「結婚しようよ」「旅の宿」で、反体制の音楽と見られていたフォークを若者の流行歌に変えた。作曲家としては森進一「襟裳岬」で1974年の日本レコード大賞を取り、フォークの作り手が歌謡曲や演歌に曲を書く流れのきっかけを作った。ラジオの深夜放送でも若者の支持を集め、2022年に音楽活動の区切りを表明した。