ヒットチャートこのタグの資料 17 本

  1. 2000年以降の歌 配信で聞き、カラオケの定番は固まり、昭和の歌は海を渡った新着No.7

    2000年以降、歌はCDで買うものから、配信やサブスク、YouTubeで聞くものに変わった。日本レコード協会の推計では2025年の売上の43%が配信である。カラオケでは20年以上前の曲が上位に残り続け、演歌の1位は1977年の「津軽海峡・冬景色」から動かない。海外ではネットを通じて昭和のシティポップが見つかり、2025年の紅白歌合戦では松田聖子が最後に歌った。

  2. 1990年代の歌 ドラマ主題歌と小室サウンドがミリオンを量産し、通信カラオケが歌を広げた新着No.6

    1990年代は、CDシングルが100万枚売れることが珍しくなかった時代である。ドラマ主題歌が200万枚を超え、テレビにあまり出ないビーイング系、プロデューサー小室哲哉の「小室ファミリー」がヒットを続けた。日本のレコード・CDの生産金額は1998年に頂点に達する。同じころ通信カラオケとカラオケボックスが広がり、カラオケ参加人口は1995年度に最多になった。

  3. 1980年代の歌 聖子と明菜、ザ・ベストテン、そしてCDとカラオケボックス新着No.5

    1980年代は、松田聖子と中森明菜を頂点とするアイドル歌謡の時代で、TBS『ザ・ベストテン』が毎週の順位をテレビで見せた。山下達郎や大滝詠一らの都会的な音楽(のちにシティポップと呼ばれる)が売れ、演歌は「北酒場」のような明るい曲やテレサ・テンの歌で幅を広げた。1982年にCDが登場し、レーザーディスクのカラオケとカラオケボックスで、歌う場所が酒場の外へ広がった。

  4. 1970年代の歌 フォークが大衆の歌になり、阿久悠と筒美京平が歌謡曲を磨いた新着No.4

    1970年代は、若者の弾き語りだったフォークがヒットチャートに入り、やがてニューミュージックへ変わっていった時代である。同時に、作詞家・阿久悠と作曲家・筒美京平が職業作家として歌謡曲の黄金期を支え、オーディション番組『スター誕生!』から山口百恵やピンク・レディーが出た。演歌も「北の宿から」「津軽海峡・冬景色」の大ヒットを生み、スナックではカラオケが広がり始めた。

  5. 1960年代の歌 テレビの時代に、御三家・若大将・グループサウンズが並んだ新着No.3

    1960年代は、テレビが歌を広める主な場になった時代である。橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦の「御三家」、世界のヒットチャートで1位になった坂本九「上を向いて歩こう」、自分で曲を書く加山雄三、ビートルズ来日後のグループサウンズが並んだ。夜の街ではムード歌謡が歌われ、日本調の歌に「演歌」という呼び名が付き始めた。

  6. 戦前・戦中の歌(〜1945) 劇の歌がレコードで広まり、流行歌という商売が生まれた新着No.1

    日本の流行歌は、1914年に劇の中で歌われた「カチューシャの唄」から始まったとされる。昭和に入ると外国資本と国内資本のレコード会社がそろい、古賀政男と藤山一郎、淡谷のり子らのヒットが生まれた。日中戦争からは軍歌と国民歌謡が流行歌の場を占め、1945年の敗戦で区切りを迎える。

  7. 吉田拓郎 フォークを若者の流行歌にし、「襟裳岬」で演歌にも橋をかけた新着No.96

    吉田拓郎は1972年の「結婚しようよ」「旅の宿」で、反体制の音楽と見られていたフォークを若者の流行歌に変えた。作曲家としては森進一「襟裳岬」で1974年の日本レコード大賞を取り、フォークの作り手が歌謡曲や演歌に曲を書く流れのきっかけを作った。ラジオの深夜放送でも若者の支持を集め、2022年に音楽活動の区切りを表明した。

  8. 中島みゆき 4つの年代でシングル1位、「糸」と「地上の星」が今も歌われる新着No.95

    中島みゆきは1975年にデビューし、同じ年に「時代」でポプコンと世界歌謡祭のグランプリを取った。「わかれうた」「悪女」「空と君のあいだに」「地上の星」で、オリコンの4つの年代にわたってシングル1位を得た唯一のソロ歌手である。2025年もカラオケDAMで「糸」が楽曲別31位、JOYSOUNDの60代で「糸」7位・「地上の星」13位に入っている。

  9. 松本隆 はっぴいえんどの日本語ロックから、聖子と「木綿のハンカチーフ」の言葉へ新着No.94

    松本隆ははっぴいえんどのドラマーとして日本語でロックを歌う道を開き、のちに歌謡曲の作詞家に転じた。太田裕美「木綿のハンカチーフ」、寺尾聰「ルビーの指環」、松田聖子の一連の1位曲などを書き、シングル売上は作詞家で歴代3位とされる。古い言葉をあえて使う、手紙のやりとりで物語を進めるといった工夫が、詞の特徴として知られる。

  10. 筒美京平 洋楽の新しさを茶の間の歌に直した、売上歴代1位の作曲家新着No.93

    筒美京平はレコード会社の洋楽担当から作曲家になり、オリコン集計で作曲作品の売上7560.2万枚と、作曲家の歴代1位を持つ。「ブルー・ライト・ヨコハマ」から少年隊、TOKIOまで、半世紀近くヒットを出し続けた。テレビにほとんど出ない裏方で、2020年10月7日に80歳で亡くなった。

  11. 歌番組とヒットチャート ベストテンの順位からストリーミングとカラオケを足すチャートへ新着No.63

    1968年にオリコンのシングルチャートと「夜のヒットスタジオ」が始まり、1971年に「スター誕生!」、1978年に「ザ・ベストテン」が始まった。歌番組は1989〜90年に相次いで終わり、ヒットの物差しは CD 売上へ、さらに配信へ移った。2008年に始まったビルボードジャパンの Hot 100 は、2018年からカラオケで歌われた回数もヒットの数に入れている。

  12. カラオケでよく歌われる曲 年間ランキングに十年以上居座る定番と、50代・60代の歌新着No.53

    2025年の年間ランキングでは、JOYSOUND・DAMとも1位がMrs. GREEN APPLE「ライラック」、2位がVaundy「怪獣の花唄」だった。一方で「残酷な天使のテーゼ」「小さな恋のうた」「ハナミズキ」「ひまわりの約束」は2015年・2020年・2025年のどの年も上位30位に入っている。演歌・歌謡曲の部門では石川さゆりとテレサ・テンの曲が毎年上位を占める。

  13. ニューミュージック フォークでも歌謡曲でもない、自分で作って歌う人たちの名前新着No.34

    ニューミュージックは、1970〜80年代に自分で作って歌う人たちの音楽を指した言葉である。フォークにロックなどを加え、生活の重さや思想を薄めた歌とされる。名づけ親ははっきりせず、範囲も文献によって違う。1978年には紅白に「ニューミュージック・コーナー」ができ、1990年代にJ-POPという言葉に置き換わった。

  14. フォーク 大学生の歌から反戦の歌へ、そして四畳半の暮らしの歌へ新着No.33

    日本のフォークは、1960年代半ばの大学生のカレッジフォークから始まり、1967年ごろから反戦や社会への怒りを歌う関西フォークが広がった。1969〜1971年の中津川のフォークジャンボリーを境に、吉田拓郎やかぐや姫が個人の暮らしや気持ちを歌うようになり、「四畳半フォーク」と呼ばれた。フォークはやがてニューミュージックへつながる。

  15. また逢う日まで(尾崎紀世彦・1971年) 二度ボツになったメロディが、レコード大賞を取った新着No.85

    筒美京平の曲は、もとはエアコンのCMソング候補として作られて不採用になり、次に阿久悠の詞でズー・ニー・ヴーが「ひとりの悲しみ」として出したが売れなかった。阿久悠が詞を「別れ」に書き直し、尾崎紀世彦が歌った「また逢う日まで」は1971年にオリコン1位、レコード大賞と日本歌謡大賞を同時に受けた。二人が納得して別れる、という描き方が新しかったとされる。

  16. なごり雪(伊勢正三・1974年/イルカ・1975年) かぐや姫のアルバム曲が、カバーで国民の春の歌になった新着No.84

    かぐや姫の伊勢正三が21歳で作り、1974年のアルバム『三階建の詩』に入れた曲。翌1975年にイルカがシングルで歌うとオリコン4位、累計80万枚とされるヒットになった。モチーフは伊勢の故郷、大分県津久見の駅。「なごり雪」という言葉自体が当時はなく、批判もあったと伊勢は語っている。

  17. 神田川(南こうせつとかぐや姫・1973年) 電話で読み上げた詞に、3分でメロディが付いた新着No.83

    1973年9月20日発売。作詞の喜多條忠が学生時代の同棲暮らしを思い出して約30分で詞を書き、電話で南こうせつに読み上げると、南はその場でメロディを付けたとされる。もとはアルバムの1曲だったが、深夜ラジオで流すとリクエストが殺到してシングルになり、オリコン1位、かぐや姫最大のヒットになった。歌詞の商標名をめぐって紅白出場を断ったことでも知られる。

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