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No.1新着 戦前・戦中の歌(〜1945) 劇の歌がレコードで広まり、流行歌という商売が生まれた

日本の流行歌は、1914年に劇の中で歌われた「カチューシャの唄」から始まったとされる。昭和に入ると外国資本と国内資本のレコード会社がそろい、古賀政男と藤山一郎、淡谷のり子らのヒットが生まれた。日中戦争からは軍歌と国民歌謡が流行歌の場を占め、1945年の敗戦で区切りを迎える。

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登録日時
2026年10月23日 21:17
出典を確かめた日
2026年10月23日
分野
戦前・戦中(〜1945)
立場
くらさんの考察
タグ
歌謡曲新着作曲家新着ヒットチャート新着女性と歌新着海外とのつながり新着
歌手・曲
松井須磨子、中山晋平、古賀政男、藤山一郎、淡谷のり子、カチューシャの唄
資料の種類
事典・概説
年代
1914〜1945年

本文と出典

あらまし

大正の初め、新劇の芸術座が上演した『復活』で、主演の松井須磨子が劇中歌を歌った。これが「カチューシャの唄」(1914年)で、作曲は中山晋平である。劇の評判とともに歌が先に広まり、レコードと楽譜と歌本が売れた。舞台の外で人々が同じ歌を口ずさむ「流行歌」の始まりは、ふつうこの曲に置かれる。
昭和に入ると、レコード会社が専属の作詞家・作曲家・歌手を抱え、新曲を作って売る仕組みができた。古賀政男の曲を藤山一郎が歌い、淡谷のり子が「ブルース」を歌って、ヒット曲が次々に出た。ところが日中戦争が始まると、レコードは検閲を受け、軍歌や戦時歌謡が増えた。NHKのラジオ番組「国民歌謡」も、はじめは家庭で歌える歌を流す番組だったが、しだいに戦時体制を支える歌の場になった。

主なできごと

・1910年 日本蓄音器商会(のちの日本コロムビア)が川崎で法人になる
・1914年 芸術座『復活』。「カチューシャの唄」のレコードが5月に発売される
・1927年 米国ビクターの日本法人として日本ビクター蓄音器が設立される
・1928年 日本蓄音器商会が社名を日本コロムビアに変える
・1929年 「東京行進曲」(作詞・西條八十、作曲・中山晋平、歌・佐藤千夜子)
・1931年 藤山一郎「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」(作曲・古賀政男)
・1934年 出版法の改正でレコードの検閲が始まる
・1936年 NHK大阪から「国民歌謡」が始まる
・1937年 淡谷のり子「別れのブルース」。軍歌「露営の歌」(作曲・古関裕而)
・1941年 「国民歌謡」が「われらのうた」に、のち「国民合唱」に変わる
・1943年 映画の挿入歌「若鷲の歌」がヒットする
・1945年 敗戦。GHQは歌詞のある軍歌を禁じた(1952年まで)

劇の歌からレコードの歌へ

「カチューシャの唄」の数字は、資料によって幅がある。レコードは2万枚以上という説がある一方、楽譜は1914年9月の時点で7万8000部売れたと新聞が伝えた。歌が広まりすぎて、女学生の『復活』観劇を禁じる学校が出たという話も残る。中山晋平はこの曲で作曲家として世に出て、「船頭小唄」や童謡「シャボン玉」なども書いた。長調の曲のほとんどをヨナ抜き音階(ドレミソラの5音)で書いたとされ、その節回しは「晋平節」と呼ばれた。
1927年に日本ビクター、翌年に日本コロムビアと、大手のレコード会社がそろう。ビクター専属になった中山晋平の「東京行進曲」は、レコードが25万枚売れたとされる。

古賀メロディーと藤山一郎、淡谷のり子

古賀政男は1931年にコロムビアの専属作曲家となり、同じ年、東京音楽学校に在学中の藤山一郎が変名で歌った「酒は涙か溜息か」が大ヒットした。100万枚を超えたとされる。古賀の作品は5,000曲ともいわれ、「古賀メロディー」と呼ばれて親しまれた。古賀の才能は、藤山の歌によって開花したとされる。初期の代表作はどれも藤山の歌で広まった。
淡谷のり子は青森市の出身で、1937年の「別れのブルース」が100万枚を超えるヒットになり、「ブルースの女王」と呼ばれた。戦時中も、禁じられていたパーマをかけ、ドレスで歌った。慰問先でも軍歌ではなく「別れのブルース」を歌ったとされる。

軍歌と国民歌謡

1937年に日中戦争が始まると、毎日新聞が公募した歌詞をもとにした「露営の歌」が、発売から半年で約60万枚売れた。B面の曲だったが、A面を上回った。古賀政男も戦時中は時局に沿った歌を書いた。国民歌謡は1日5分、同じ新曲を1週間流す番組で、東海林太郎の「椰子の実」などを世に出したが、1937年以降は「愛国行進曲」や「海ゆかば」も流した。

カラオケで歌うなら

カラオケDAMの2025年「演歌・歌謡」年間ランキング上位30曲を見ると、戦前・戦中に出た曲は入っていない。いちばん古いのは1948年の「憧れのハワイ航路」(岡晴夫)である。戦前の歌は、今のカラオケでは上位に出てくる曲ではなくなっている。藤山一郎の歌は、戦後の「青い山脈」(1949年)の形で今も歌われている。

評価の分かれる点

「カチューシャの唄」のレコード枚数は、2万枚説のほか、新聞が報じた「2000枚」が「2000円」(吹き込み料)の誤植だったとする見方もあり、はっきりしない。戦時中の作曲家が軍歌を書いたことをどう評価するかも、意見が分かれる。

くらさんの考察

流行歌は、劇・映画・ラジオという別の「場」に乗って広まり、レコード会社がそれを商売の形に整えたと考えられる。人々が劇場で聞いた歌を家で歌い直す、という流れは、今のカラオケで主題歌を歌うのとよく似ている。戦争中に国が同じ仕組みを使って歌を広めたことは、流行歌の力の大きさを裏から示していると考えられる。

ジージへの問いかけ

・ジージが子どものころ、家や近所で歌われていた戦前の歌はありますか。
・淡谷のり子が戦時中もドレスで歌い通したことを、どう思いますか。
・軍歌を今どこかで耳にすると、懐かしさと複雑な気持ちのどちらが先に立ちますか。

出典

・ウィキペディア「カチューシャの唄」 https://ja.wikipedia.org/wiki/カチューシャの唄
・ウィキペディア「中山晋平」 https://ja.wikipedia.org/wiki/中山晋平
・ウィキペディア「古賀政男」 https://ja.wikipedia.org/wiki/古賀政男
・ウィキペディア「藤山一郎」 https://ja.wikipedia.org/wiki/藤山一郎
・ウィキペディア「淡谷のり子」 https://ja.wikipedia.org/wiki/淡谷のり子
・ウィキペディア「日本コロムビア」 https://ja.wikipedia.org/wiki/日本コロムビア
・ウィキペディア「日本ビクター」 https://ja.wikipedia.org/wiki/日本ビクター
・ウィキペディア「国民歌謡」 https://ja.wikipedia.org/wiki/国民歌謡
・ウィキペディア「軍歌」 https://ja.wikipedia.org/wiki/軍歌
・ウィキペディア「露営の歌」 https://ja.wikipedia.org/wiki/露営の歌
・ウィキペディア「憧れのハワイ航路」 https://ja.wikipedia.org/wiki/憧れのハワイ航路
・カラオケDAM公式「演歌・歌謡のカラオケ年間ランキング」 https://www.clubdam.com/genre/enka/ranking_year.html

動画

・丘を越えて(Ichiro Fujiyama - Topic)https://www.youtube.com/watch?v=Uy54auHnKhA

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