作曲家このタグの資料 15 本
- 1990年代の歌 ドラマ主題歌と小室サウンドがミリオンを量産し、通信カラオケが歌を広げた新着No.6
1990年代は、CDシングルが100万枚売れることが珍しくなかった時代である。ドラマ主題歌が200万枚を超え、テレビにあまり出ないビーイング系、プロデューサー小室哲哉の「小室ファミリー」がヒットを続けた。日本のレコード・CDの生産金額は1998年に頂点に達する。同じころ通信カラオケとカラオケボックスが広がり、カラオケ参加人口は1995年度に最多になった。
- 1970年代の歌 フォークが大衆の歌になり、阿久悠と筒美京平が歌謡曲を磨いた新着No.4
1970年代は、若者の弾き語りだったフォークがヒットチャートに入り、やがてニューミュージックへ変わっていった時代である。同時に、作詞家・阿久悠と作曲家・筒美京平が職業作家として歌謡曲の黄金期を支え、オーディション番組『スター誕生!』から山口百恵やピンク・レディーが出た。演歌も「北の宿から」「津軽海峡・冬景色」の大ヒットを生み、スナックではカラオケが広がり始めた。
- 戦前・戦中の歌(〜1945) 劇の歌がレコードで広まり、流行歌という商売が生まれた新着No.1
日本の流行歌は、1914年に劇の中で歌われた「カチューシャの唄」から始まったとされる。昭和に入ると外国資本と国内資本のレコード会社がそろい、古賀政男と藤山一郎、淡谷のり子らのヒットが生まれた。日中戦争からは軍歌と国民歌謡が流行歌の場を占め、1945年の敗戦で区切りを迎える。
- 吉田拓郎 フォークを若者の流行歌にし、「襟裳岬」で演歌にも橋をかけた新着No.96
吉田拓郎は1972年の「結婚しようよ」「旅の宿」で、反体制の音楽と見られていたフォークを若者の流行歌に変えた。作曲家としては森進一「襟裳岬」で1974年の日本レコード大賞を取り、フォークの作り手が歌謡曲や演歌に曲を書く流れのきっかけを作った。ラジオの深夜放送でも若者の支持を集め、2022年に音楽活動の区切りを表明した。
- 筒美京平 洋楽の新しさを茶の間の歌に直した、売上歴代1位の作曲家新着No.93
筒美京平はレコード会社の洋楽担当から作曲家になり、オリコン集計で作曲作品の売上7560.2万枚と、作曲家の歴代1位を持つ。「ブルー・ライト・ヨコハマ」から少年隊、TOKIOまで、半世紀近くヒットを出し続けた。テレビにほとんど出ない裏方で、2020年10月7日に80歳で亡くなった。
- 日本レコード大賞 作曲家たちが作った賞は、視聴率50%から一けたへ、それでも年末の顔であり続ける新着No.61
日本レコード大賞は、古賀政男らが1958年に作った日本作曲家協会が主催し、1959年に始まった。第1回の大賞は水原弘「黒い花びら」。1969年から大晦日に生中継され、1977年には視聴率50.8%に達したが、2006年に12月30日へ移り、2023年は9.6%まで下がった。2025年の第67回は Mrs. GREEN APPLE「ダーリン」が大賞で、3年連続となった。
- アイドル歌謡 1971年の「新三人娘」から、テレビのオーディションと大人数グループへ新着No.36
日本のアイドル歌謡は、南沙織・天地真理・小柳ルミ子がデビューした1971年を「アイドル元年」とすることが多い。同じ年に始まった『スター誕生!』から山口百恵らが出て、キャンディーズとピンク・レディーが1970年代後半を席巻した。1980年代は松田聖子と「花の82年組」の黄金時代で、1985年のおニャン子クラブが大人数グループの始まりになった。
- 歌謡曲とは何か 放送局が「はやり歌」を言い換えた言葉が、昭和の歌全体の名前になった新着No.31
「歌謡曲」は、1933年にJOAK(今のNHK)が「流行歌」「はやり歌」の代わりに放送で使ったことで広まった言葉である。レコード会社の専属作家と歌手の分業で作る歌を指し、1960〜70年代にテレビとともに黄金時代を迎えた。1990年代にJ-POPという呼び名が広まると、歌謡曲は「昭和の歌」を指す言葉に変わっていった。
- 時の流れに身をまかせ(テレサ・テン・1986年) 日本の歌謡曲が、中国語でアジアに歌い継がれた新着No.87
1986年2月21日発売。荒木とよひさ・三木たかしがテレサ・テンに書いた3作目で、前の「つぐない」「愛人」と合わせて日本有線大賞と全日本有線放送大賞の3年連続グランプリになった。テレサ自身が中国語版「我只在乎你」を歌い、中国語圏でも代表曲として歌い継がれている。
- 銀座の恋の物語(石原裕次郎・牧村旬子・1961年) 映画スターと17歳の歌手の、デュエットの元祖新着No.86
1961年にテイチクから出た石原裕次郎と牧村旬子のデュエット曲。映画『街から街へつむじ風』の挿入歌として広まり、翌1962年には同じ題名の日活映画も作られた。公称300万枚とされ、通称「銀恋」。カラオケが生まれる前のムード歌謡のデュエットだが、今もカラオケでデュエットの定番として歌われている。
- また逢う日まで(尾崎紀世彦・1971年) 二度ボツになったメロディが、レコード大賞を取った新着No.85
筒美京平の曲は、もとはエアコンのCMソング候補として作られて不採用になり、次に阿久悠の詞でズー・ニー・ヴーが「ひとりの悲しみ」として出したが売れなかった。阿久悠が詞を「別れ」に書き直し、尾崎紀世彦が歌った「また逢う日まで」は1971年にオリコン1位、レコード大賞と日本歌謡大賞を同時に受けた。二人が納得して別れる、という描き方が新しかったとされる。
- なごり雪(伊勢正三・1974年/イルカ・1975年) かぐや姫のアルバム曲が、カバーで国民の春の歌になった新着No.84
かぐや姫の伊勢正三が21歳で作り、1974年のアルバム『三階建の詩』に入れた曲。翌1975年にイルカがシングルで歌うとオリコン4位、累計80万枚とされるヒットになった。モチーフは伊勢の故郷、大分県津久見の駅。「なごり雪」という言葉自体が当時はなく、批判もあったと伊勢は語っている。
- 神田川(南こうせつとかぐや姫・1973年) 電話で読み上げた詞に、3分でメロディが付いた新着No.83
1973年9月20日発売。作詞の喜多條忠が学生時代の同棲暮らしを思い出して約30分で詞を書き、電話で南こうせつに読み上げると、南はその場でメロディを付けたとされる。もとはアルバムの1曲だったが、深夜ラジオで流すとリクエストが殺到してシングルになり、オリコン1位、かぐや姫最大のヒットになった。歌詞の商標名をめぐって紅白出場を断ったことでも知られる。
- 天城越え(石川さゆり・1986年) 「この人にしか歌えない」を狙って作られ、カラオケでいちばん歌われる演歌になった新着No.82
1986年7月21日発売。作詞の吉岡治、作曲の弦哲也、編曲の桜庭伸幸が伊豆・天城湯ケ島の宿に泊まり込んで作った。カラオケブームのなかで、あえて石川さゆりにしか歌えない難しい曲を、という狙いだった。発売時のオリコン最高位は46位にとどまったが、紅白で繰り返し歌われ、DAMでは1994〜2018年に最も歌われた演歌とされる。
- 川の流れのように(美空ひばり・1989年) 最後のシングルは、本人が選び直した一曲だった新着No.81
美空ひばりの生前最後のシングル。もとはアルバムの表題曲で、スタッフは別の曲をシングルにするつもりだったが、ひばり本人の強い希望で入れ替わった。作詞の秋元康はニューヨークで見た川から想を得たと語っている。発売5か月後のひばりの死をへて売上が伸び、1997年のNHKの投票では「20世紀の日本人を感動させた歌」の1位に選ばれた。
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