レコード大賞このタグの資料 19 本

  1. 2000年以降の歌 配信で聞き、カラオケの定番は固まり、昭和の歌は海を渡った新着No.7

    2000年以降、歌はCDで買うものから、配信やサブスク、YouTubeで聞くものに変わった。日本レコード協会の推計では2025年の売上の43%が配信である。カラオケでは20年以上前の曲が上位に残り続け、演歌の1位は1977年の「津軽海峡・冬景色」から動かない。海外ではネットを通じて昭和のシティポップが見つかり、2025年の紅白歌合戦では松田聖子が最後に歌った。

  2. 1990年代の歌 ドラマ主題歌と小室サウンドがミリオンを量産し、通信カラオケが歌を広げた新着No.6

    1990年代は、CDシングルが100万枚売れることが珍しくなかった時代である。ドラマ主題歌が200万枚を超え、テレビにあまり出ないビーイング系、プロデューサー小室哲哉の「小室ファミリー」がヒットを続けた。日本のレコード・CDの生産金額は1998年に頂点に達する。同じころ通信カラオケとカラオケボックスが広がり、カラオケ参加人口は1995年度に最多になった。

  3. 1980年代の歌 聖子と明菜、ザ・ベストテン、そしてCDとカラオケボックス新着No.5

    1980年代は、松田聖子と中森明菜を頂点とするアイドル歌謡の時代で、TBS『ザ・ベストテン』が毎週の順位をテレビで見せた。山下達郎や大滝詠一らの都会的な音楽(のちにシティポップと呼ばれる)が売れ、演歌は「北酒場」のような明るい曲やテレサ・テンの歌で幅を広げた。1982年にCDが登場し、レーザーディスクのカラオケとカラオケボックスで、歌う場所が酒場の外へ広がった。

  4. 1970年代の歌 フォークが大衆の歌になり、阿久悠と筒美京平が歌謡曲を磨いた新着No.4

    1970年代は、若者の弾き語りだったフォークがヒットチャートに入り、やがてニューミュージックへ変わっていった時代である。同時に、作詞家・阿久悠と作曲家・筒美京平が職業作家として歌謡曲の黄金期を支え、オーディション番組『スター誕生!』から山口百恵やピンク・レディーが出た。演歌も「北の宿から」「津軽海峡・冬景色」の大ヒットを生み、スナックではカラオケが広がり始めた。

  5. 1960年代の歌 テレビの時代に、御三家・若大将・グループサウンズが並んだ新着No.3

    1960年代は、テレビが歌を広める主な場になった時代である。橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦の「御三家」、世界のヒットチャートで1位になった坂本九「上を向いて歩こう」、自分で曲を書く加山雄三、ビートルズ来日後のグループサウンズが並んだ。夜の街ではムード歌謡が歌われ、日本調の歌に「演歌」という呼び名が付き始めた。

  6. 戦後の歌謡曲(1945〜1959) 焼け跡の明るい歌から、ひばりと望郷の歌へ新着No.2

    敗戦の年の秋、映画『そよかぜ』の「リンゴの唄」が戦後最初のヒットになった。笠置シヅ子のブギ、少女歌手・美空ひばりの登場、「三人娘」と、明るくはずむ歌が続く一方、シベリア帰りの兵の「異国の丘」や、三橋美智也・春日八郎の故郷を思う歌も多くの人に歌われた。紅白歌合戦(1951年)と日本レコード大賞(1959年)もこの時代に始まる。

  7. 吉田拓郎 フォークを若者の流行歌にし、「襟裳岬」で演歌にも橋をかけた新着No.96

    吉田拓郎は1972年の「結婚しようよ」「旅の宿」で、反体制の音楽と見られていたフォークを若者の流行歌に変えた。作曲家としては森進一「襟裳岬」で1974年の日本レコード大賞を取り、フォークの作り手が歌謡曲や演歌に曲を書く流れのきっかけを作った。ラジオの深夜放送でも若者の支持を集め、2022年に音楽活動の区切りを表明した。

  8. 松本隆 はっぴいえんどの日本語ロックから、聖子と「木綿のハンカチーフ」の言葉へ新着No.94

    松本隆ははっぴいえんどのドラマーとして日本語でロックを歌う道を開き、のちに歌謡曲の作詞家に転じた。太田裕美「木綿のハンカチーフ」、寺尾聰「ルビーの指環」、松田聖子の一連の1位曲などを書き、シングル売上は作詞家で歴代3位とされる。古い言葉をあえて使う、手紙のやりとりで物語を進めるといった工夫が、詞の特徴として知られる。

  9. 筒美京平 洋楽の新しさを茶の間の歌に直した、売上歴代1位の作曲家新着No.93

    筒美京平はレコード会社の洋楽担当から作曲家になり、オリコン集計で作曲作品の売上7560.2万枚と、作曲家の歴代1位を持つ。「ブルー・ライト・ヨコハマ」から少年隊、TOKIOまで、半世紀近くヒットを出し続けた。テレビにほとんど出ない裏方で、2020年10月7日に80歳で亡くなった。

  10. 阿久悠 5000曲を書き、テレビでスターを作った歌謡曲黄金期の作詞家新着No.92

    阿久悠は広告会社と放送作家を経て作詞家になり、生涯に5000曲以上を書いた。日本レコード大賞の大賞を作詞家として最多の5曲で受け、『スター誕生!』の企画と審査員としてピンク・レディーや山口百恵らが世に出る場を作った。演歌からアイドルまで一人で書き分けたことが、1970年代の歌謡曲の幅をそのまま表している。

  11. 美空ひばり 子どもの歌手から「女王」へ、40年歌い続けた戦後の歌の中心新着No.91

    美空ひばりは1949年に12歳で本格デビューし、「悲しき口笛」「リンゴ追分」「柔」「悲しい酒」と時代ごとに大ヒットを出した。1989年に52歳で亡くなり、女性で初めての国民栄誉賞を受けた。日本コロムビアの発表では総売上は約1億1700万枚にのぼり、2025年もカラオケDAMの歌手別で15位に入っている。

  12. 日本レコード大賞 作曲家たちが作った賞は、視聴率50%から一けたへ、それでも年末の顔であり続ける新着No.61

    日本レコード大賞は、古賀政男らが1958年に作った日本作曲家協会が主催し、1959年に始まった。第1回の大賞は水原弘「黒い花びら」。1969年から大晦日に生中継され、1977年には視聴率50.8%に達したが、2006年に12月30日へ移り、2023年は9.6%まで下がった。2025年の第67回は Mrs. GREEN APPLE「ダーリン」が大賞で、3年連続となった。

  13. アイドル歌謡 1971年の「新三人娘」から、テレビのオーディションと大人数グループへ新着No.36

    日本のアイドル歌謡は、南沙織・天地真理・小柳ルミ子がデビューした1971年を「アイドル元年」とすることが多い。同じ年に始まった『スター誕生!』から山口百恵らが出て、キャンディーズとピンク・レディーが1970年代後半を席巻した。1980年代は松田聖子と「花の82年組」の黄金時代で、1985年のおニャン子クラブが大人数グループの始まりになった。

  14. グループサウンズ ビートルズ来日のあと、エレキを鳴らす若者の集団が100組を超えた新着No.35

    グループサウンズ(GS)は、エレキギターを弾きながら歌う若者のグループが1967〜1969年に大流行したものである。1966年のビートルズ来日のあとデビューが相次ぎ、1968年夏には100組を超えた。ブルー・コメッツは1967年にレコード大賞を取ったが、長髪や失神騒ぎで大人の反発も強く、1970年ごろにブームは終わった。

  15. 演歌 演説の歌が流しの「艶歌」を経て、1970年ごろ「日本の心」の歌として名前を得た新着No.32

    「演歌」はもともと明治の自由民権運動で、演説の代わりに歌われた歌を指した。今の意味の演歌は、1960年代の「艶歌」を経て、1970年ごろに民謡調や浪曲調の歌謡曲をまとめて呼ぶ名前として定着した。輪島裕介『創られた「日本の心」神話』は、演歌が昔からの日本の心だという見方そのものが1960年代以降に作られたと論じた。

  16. 時の流れに身をまかせ(テレサ・テン・1986年) 日本の歌謡曲が、中国語でアジアに歌い継がれた新着No.87

    1986年2月21日発売。荒木とよひさ・三木たかしがテレサ・テンに書いた3作目で、前の「つぐない」「愛人」と合わせて日本有線大賞と全日本有線放送大賞の3年連続グランプリになった。テレサ自身が中国語版「我只在乎你」を歌い、中国語圏でも代表曲として歌い継がれている。

  17. また逢う日まで(尾崎紀世彦・1971年) 二度ボツになったメロディが、レコード大賞を取った新着No.85

    筒美京平の曲は、もとはエアコンのCMソング候補として作られて不採用になり、次に阿久悠の詞でズー・ニー・ヴーが「ひとりの悲しみ」として出したが売れなかった。阿久悠が詞を「別れ」に書き直し、尾崎紀世彦が歌った「また逢う日まで」は1971年にオリコン1位、レコード大賞と日本歌謡大賞を同時に受けた。二人が納得して別れる、という描き方が新しかったとされる。

  18. 天城越え(石川さゆり・1986年) 「この人にしか歌えない」を狙って作られ、カラオケでいちばん歌われる演歌になった新着No.82

    1986年7月21日発売。作詞の吉岡治、作曲の弦哲也、編曲の桜庭伸幸が伊豆・天城湯ケ島の宿に泊まり込んで作った。カラオケブームのなかで、あえて石川さゆりにしか歌えない難しい曲を、という狙いだった。発売時のオリコン最高位は46位にとどまったが、紅白で繰り返し歌われ、DAMでは1994〜2018年に最も歌われた演歌とされる。

  19. 川の流れのように(美空ひばり・1989年) 最後のシングルは、本人が選び直した一曲だった新着No.81

    美空ひばりの生前最後のシングル。もとはアルバムの表題曲で、スタッフは別の曲をシングルにするつもりだったが、ひばり本人の強い希望で入れ替わった。作詞の秋元康はニューヨークで見た川から想を得たと語っている。発売5か月後のひばりの死をへて売上が伸び、1997年のNHKの投票では「20世紀の日本人を感動させた歌」の1位に選ばれた。

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