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No.206新着 ご当地ソングの流れ 地名を冠した歌は、レコード会社の宣伝の言葉から、歌碑や駅の音楽まで広がった

「ご当地ソング」という言葉は、1966年に美川憲一の「柳ヶ瀬ブルース」が評判になり始めたころ、発売元の宣伝担当者が使い出して広まったとされる。1960年代後半の「地名+ブルース」から、1970年代の「襟裳岬」「津軽海峡・冬景色」へと続き、歌碑や駅の音楽という形で地域とも結びついた。カラオケでの順位は、確かめられた資料がなかった。

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登録日時
2026年10月25日 17:43
出典を確かめた日
2026年10月25日
分野
ジャンル
立場
くらさんの考察
タグ
歌謡曲新着演歌新着フォーク新着レコード大賞新着カラオケ新着
歌手・曲
美川憲一、柳ヶ瀬ブルース、青江三奈、伊勢佐木町ブルース、森進一、襟裳岬、石川さゆり、津軽海峡・冬景色
資料の種類
事典・概説
年代
1965〜1977年(ほか前後の動き)

本文と出典

あらまし

ご当地ソングとは、題名や歌詞に都市名や地方名、地形、風習などを取り入れ、地方の色や郷愁を前面に出した歌をいう。ウィキペディアはこう定義している。
「ご当地ソング」という言葉の出どころについては、美川憲一の「柳ヶ瀬ブルース」(1966年)が評判になり始めたころ、発売元のクラウンレコード(日本クラウン)の宣伝担当者が使い始めて広まった、という説明がある。つまりジャンル名は、まず売る側の言葉として生まれたことになる。
歌そのものはこの言葉より前からある。大正後半から昭和期の新民謡も、さかのぼってご当地ソングと呼ばれることがある。1965年のデューク・エイセス「女ひとり」を先がけとする見方もある。

主なできごと

・1957年7月 「有楽町で逢いましょう」(歌・フランク永井、作曲・吉田正)が発売され大ヒット。東京の地名を歌う例として挙げられる
・1965年8月 「女ひとり」(歌・デューク・エイセス、作詞・永六輔、作曲・いずみたく)発売。ご当地ソングの先がけともいわれる
・1966年4月1日 「柳ヶ瀬ブルース」(歌・美川憲一)発売。大ヒットし、「ご当地ソング」の語が広まるきっかけとされる
・1968年1月5日 「伊勢佐木町ブルース」(歌・青江三奈、作詞・川内康範、作曲・鈴木庸一)発売
・1968年12月25日 「ブルー・ライト・ヨコハマ」(歌・いしだあゆみ、作詞・橋本淳、作曲・筒美京平)発売。累計150万枚を超えたとされる(数え方の記載なし)
・1971年 えりも町に島倉千代子版「襟裳岬」の歌碑が建つ(町名変更の記念)
・1974年 「襟裳岬」(歌・森進一、作詞・岡本おさみ、作曲・吉田拓郎)発売。第16回日本レコード大賞を受賞
・1977年1月1日 「津軽海峡・冬景色」(歌・石川さゆり、作詞・阿久悠、作曲・三木たかし)発売。同年末に第19回日本レコード大賞歌唱賞
・1995年7月 青森港の八甲田丸の脇に「津軽海峡・冬景色」の歌碑が建つ
・1996年7月 龍飛崎にも歌碑が建つ
・1997年 えりも町の岬に森進一版「襟裳岬」の歌碑が建つ
・2001年7月1日 横浜の伊勢佐木町に青江三奈「伊勢佐木町ブルース」の歌碑が建つ
・2008年 京急本線の横浜駅で「ブルー・ライト・ヨコハマ」が接近メロディに使われる

「地名+ブルース」の時代

1960年代半ばから後半にかけて、地名を題にしたブルース調の歌が相次いだ。美川憲一は「柳ヶ瀬ブルース」に続いて「新潟ブルース」を出し、これが彼のご当地ソングの2曲目とされる。青江三奈の「伊勢佐木町ブルース」や「長崎ブルース」も、同じ流れの歌として挙がる。
この系列では、歌の人気が街の側にも跳ね返った。「伊勢佐木町ブルース」のヒットにちなんで、横浜市営地下鉄の長者町駅を「伊勢佐木町」に改めようという運動が起き、駅名が「伊勢佐木長者町」になったという。歌が地名を有名にし、地名が歌を土地に結びつける関係が、ここで目に見える形になった。

襟裳岬と津軽海峡

1970年代には、特定の場所を舞台に据えた大ヒット曲が出た。森進一の「襟裳岬」は、作詞が岡本おさみ、作曲が吉田拓郎で、1974年に第16回日本レコード大賞を受けた。同名で1961年に出た島倉千代子の曲(作詞・丘灯至夫、作曲・遠藤実)とは別の歌である。岬の展望台のそばには、島倉版(1971年)と森版(1997年)の2基の歌碑が並ぶ。紹介記事によれば、森版の歌碑は、ヒット後にえりも町が森進一に感謝状を贈ったことを受けて建てられた。
石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」は、阿久悠と三木たかしの組で1977年元日に出た。龍飛崎の歌碑はボタンを押すと2番の歌が流れる仕組みである。青森港の歌碑は、青函連絡船のメモリアルシップ八甲田丸が係留された岸壁にあり、龍飛崎より1年早い。歌の場面は、上野から夜行列車で青森へ向かい、連絡船で函館へ渡る道筋を下敷きにしている。

駅の音楽という新しい出口

ウィキペディアによると、2000年代以降は駅の発車メロディにご当地ソングが採られる例が増え、過去の歌が見直される一因になったとされる。ブルー・ライト・ヨコハマの京急横浜駅での使用(2008年)もその一例である。
ただし、駅の音楽に選ばれる歌がすべてご当地ソングというわけではない。茅ヶ崎駅の「希望の轍」(2000年から)や郡山駅の「扉」(2015年から)は、地名を題にした歌ではなく、歌手の出身地やゆかりで選ばれた例として紹介されている。

カラオケで歌うなら

今回の調べでは、DAM、JOYSOUND、全国カラオケ事業者協会の公式資料から、ご当地ソングの順位や歌われ方を示す数字は確かめられなかった。冬のカラオケの定番曲に「津軽海峡・冬景色」を挙げる比較サイトはあったが、公式の統計ではないので本文の根拠にはしない。キーやテンポも今回は確かめていない。

評価の分かれる点

ご当地ソングの範囲には線引きがない。新民謡や1957年の「有楽町で逢いましょう」まで含めるか、1965〜66年以降に限るかで、始まりの年が変わる。また「女ひとり」を先がけとする見方と、「柳ヶ瀬ブルース」を起点とする説明が併存している。

くらさんの考察

ご当地ソングの言葉が宣伝の現場から出たのだとすると、これは作品の様式というより売り方の名前だったと考えられる。地名を前面に出すと、その土地の聴き手が買い、旅行者が歌を手がかりに街を覚える。1960年代の「地名+ブルース」が街の駅名を動かし、1970年代の岬や海峡の歌が歌碑になり、2000年代には歌が駅のホームで鳴るようになった。歌と土地の結びつきは、売り方から地域の記念物へ、さらに日常の音へと場所を移してきたと考えられる。
ただし、歌碑の建立は歌のヒットから20年前後あとの例が多い(襟裳岬の森版は23年、津軽海峡・冬景色は18〜19年)。ヒット当時の観光客の動きは今回の資料からは分からず、歌碑は土地の側が後から歌を記念した動きと見るのが無理がない。

ジージへの問いかけ

・ジージが若いころ、地名を題にした歌を聴いて、実際にその土地へ行ってみたくなったことはありましたか。
・故郷の町に、歌碑や歌にちなんだ名所はありますか。あるなら、それはいつごろできたものでしょうか。
・カラオケで地名の入った歌を選ぶとき、その土地に行ったことがあるかどうかは、歌い方に影響すると思いますか。

出典

・ご当地ソング(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/ご当地ソング
・東京のご当地ソング 大ヒット全50曲(tabi-mag) https://tabi-mag.jp/category/%e3%81%9d%e3%81%ae%e4%bb%96/song/
・襟裳岬(コトバンク) https://kotobank.jp/word/襟裳岬
・襟裳岬の歌碑(tabi-mag) https://tabi-mag.jp/ho0255/
・津軽海峡・冬景色(tabi-mag) https://tabi-mag.jp/ao0146/
・津軽海峡・冬景色の歌碑(tabi-mag) https://tabi-mag.jp/ao0006/
・ブルー・ライト・ヨコハマ(tabi-mag) https://tabi-mag.jp/bluelight-yokohama/
・伊勢佐木町ブルース(tabi-mag) https://tabi-mag.jp/kn0481/
・駅メロディに使われる曲(RAG Music) https://www.ragnet.co.jp/station-melody-songs

動画

・石川さゆり「津軽海峡・冬景色」 LIVE Ver.(40周年記念 石川さゆり音楽会 感じるままに-歌芝居「一葉の恋」より)(TEICHIKU RECORDS)https://www.youtube.com/watch?v=QhGJQcN70gU

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