海外とのつながりこのタグの資料 9 本

  1. 2000年以降の歌 配信で聞き、カラオケの定番は固まり、昭和の歌は海を渡った新着No.7

    2000年以降、歌はCDで買うものから、配信やサブスク、YouTubeで聞くものに変わった。日本レコード協会の推計では2025年の売上の43%が配信である。カラオケでは20年以上前の曲が上位に残り続け、演歌の1位は1977年の「津軽海峡・冬景色」から動かない。海外ではネットを通じて昭和のシティポップが見つかり、2025年の紅白歌合戦では松田聖子が最後に歌った。

  2. 1960年代の歌 テレビの時代に、御三家・若大将・グループサウンズが並んだ新着No.3

    1960年代は、テレビが歌を広める主な場になった時代である。橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦の「御三家」、世界のヒットチャートで1位になった坂本九「上を向いて歩こう」、自分で曲を書く加山雄三、ビートルズ来日後のグループサウンズが並んだ。夜の街ではムード歌謡が歌われ、日本調の歌に「演歌」という呼び名が付き始めた。

  3. 戦前・戦中の歌(〜1945) 劇の歌がレコードで広まり、流行歌という商売が生まれた新着No.1

    日本の流行歌は、1914年に劇の中で歌われた「カチューシャの唄」から始まったとされる。昭和に入ると外国資本と国内資本のレコード会社がそろい、古賀政男と藤山一郎、淡谷のり子らのヒットが生まれた。日中戦争からは軍歌と国民歌謡が流行歌の場を占め、1945年の敗戦で区切りを迎える。

  4. 筒美京平 洋楽の新しさを茶の間の歌に直した、売上歴代1位の作曲家新着No.93

    筒美京平はレコード会社の洋楽担当から作曲家になり、オリコン集計で作曲作品の売上7560.2万枚と、作曲家の歴代1位を持つ。「ブルー・ライト・ヨコハマ」から少年隊、TOKIOまで、半世紀近くヒットを出し続けた。テレビにほとんど出ない裏方で、2020年10月7日に80歳で亡くなった。

  5. カラオケの誕生 スナックの8トラックから始まり、発明者は一人に決まらない新着No.51

    カラオケは1960年代の終わりから70年代の初めに、8トラックテープの再生機にマイクを付けた機械としてスナックや酒場に置かれたのが始まりとされる。発明者には根岸重一(1967年)、浜崎厳(1968年)、井上大佑(1971年)らの名が挙がり、一人には決まらない。誰も特許を取らなかったことが、かえって業界を一気に広げたと考えられる。1980年代にはレーザーディスクで映像と歌詞が画面に出るようになった。

  6. シティポップ 1980年代の都会の音楽が、40年後にインターネットで世界に見つかった新着No.37

    シティポップは、1970年代後半から1980年代に流行した、洋楽の響きを持つ都会的なポップスである。山下達郎、竹内まりや、大滝詠一、杏里らが代表で、1980年代前半が全盛期だった。2010年代後半、YouTubeやSpotifyを通じて海外で聴かれ始め、竹内まりや「プラスティック・ラヴ」や松原みき「真夜中のドア」が世界で知られるようになった。

  7. グループサウンズ ビートルズ来日のあと、エレキを鳴らす若者の集団が100組を超えた新着No.35

    グループサウンズ(GS)は、エレキギターを弾きながら歌う若者のグループが1967〜1969年に大流行したものである。1966年のビートルズ来日のあとデビューが相次ぎ、1968年夏には100組を超えた。ブルー・コメッツは1967年にレコード大賞を取ったが、長髪や失神騒ぎで大人の反発も強く、1970年ごろにブームは終わった。

  8. フォーク 大学生の歌から反戦の歌へ、そして四畳半の暮らしの歌へ新着No.33

    日本のフォークは、1960年代半ばの大学生のカレッジフォークから始まり、1967年ごろから反戦や社会への怒りを歌う関西フォークが広がった。1969〜1971年の中津川のフォークジャンボリーを境に、吉田拓郎やかぐや姫が個人の暮らしや気持ちを歌うようになり、「四畳半フォーク」と呼ばれた。フォークはやがてニューミュージックへつながる。

  9. 時の流れに身をまかせ(テレサ・テン・1986年) 日本の歌謡曲が、中国語でアジアに歌い継がれた新着No.87

    1986年2月21日発売。荒木とよひさ・三木たかしがテレサ・テンに書いた3作目で、前の「つぐない」「愛人」と合わせて日本有線大賞と全日本有線放送大賞の3年連続グランプリになった。テレサ自身が中国語版「我只在乎你」を歌い、中国語圏でも代表曲として歌い継がれている。

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